至高なる大祭司であり王であるキリスト宣教会

毎日の黙想

テキストをPDF文章で見ることができます。

 

道徳と宗教・洗礼者ヨハネの誕生

サレジオの聖フランシスコの生涯

2012年4月22日京都カトリック北白川教会でのミサ

霊性とは

2013-7-23

主はわたしの光、わたしの救い

2013-9-25

 

久しぶりに毎日の黙想を更新することができました。

 

2013-7-15

お元気ですか?

こちらもかなり暑くなってきました。

この便利な時代、遠く離れていても、一瞬のうちに世界のニュースをネットで知ることができます。ほんとうに心が痛むニュースが多くて、ほっとする時が必要です。

宗教がないとその場的な考えしかできなくなります。神の愛を信じると、神に抱かれるように苦しみを喜びも受け入れることができます。

教皇フランシスコは実に、現実的に分かりやすく、かつ福音のメッセージを妥協することなく力強く、宣教されます。教皇の説教を聴くと元気がでます。

今日、紹介する映像は教皇が、信仰年にあたりローマに集った、6000人以上の、神学生また修道院の修練者たちに述べ伝えたメッセージの一部です。

教皇はそのメッセージの内で、“私は、自分でこの道を選んだという、志願者が好きでない。召命に対する答えは、愛に対する呼びかけへの応答です。自らの内に感じるものです。”

そして教皇はこうも言いました、“顔の長い、悲しい志願者を見ると、かれらの命はまるで重たい覆いによって遮られたもののように見えます。彼らは悲しみによって、引き釣り下ろされています。なにかがおかしいのです。不機嫌な顔の修道女、司祭になってはいけません。真の喜びはイエスからくるのです。”

 

どうかイエスの光を愛をみなさんと分かちあえることができますように。

主に感謝

教皇フランシスコのヴィデオをどうかご覧ください。

 

2013-7-6

神のいつくしみの主日

2013-6-27

 

イエスの御心の祝日

 

 

2013-5-21

人はなぜ、旅に出るのでしょうか?人によって理由は様々でしょうが、やはり新しいものに出会うために人は旅にでるのではないでしょうか?

人生もまた旅にたとえられます。人は生まれ、成長し、友人と出会い、また別れ、結婚し、職業をもち、さまざまな苦難、喜びを経験しながら、人は死んでゆきます。

私達カトリック教徒にとって、この人生は単なる旅路ではなく、信仰の旅路です。人生を織り成すさまざまな出来事は、偶然ではない。

私達にとって人生とは、様々な出来事を通じて、永遠の御父の愛を受け入れ、三位一体の神を知り、愛することにあります。

5月はマリアの月です。マリアは上からの賜物に完全に心を開きました。そして、神の愛を信じ、自分の御子の復活まで、マリアはキリストと共にいます。最後まで信じた方は幸せ、マリアに神を信じる心を願いましょう。

2013-4-21

みなさん、とても祝福された聖週間をともに過ごせたことを、神様とみなさんにお礼申し上げます。私はこの大きな共同体の一員となるお恵みをいただきました。この聖フランシスコ・サレジオ教会での充実した典礼に参加できたことは、私たち一人一人にとって、またとない経験となるに違いありません。そして、復活祭から一週間たった今日、神のいつくしみの主日をお祝いします。神のいつくしみの御絵はすでによく知られていますが、この有名な御絵の成り立ちには、興味深いものがあります。イエスは、神のいつくしみに身を捧げる最初の者として、シスター・ファウスティナに現れました。1905年8月25日、シスターはポーランドに生まれました。ごく幼い頃からシスター・ファウスティナは祈ることや仕事をするのが大好きで、従順でもあり、貧しい人たちにも細かい気配りができました。9歳で初聖体を受けたのですが、その瞬間、魂の内に聖なる訪問者の存在に気づき、深い思いをもってその時を過ごしました。1925年8月1日、苦しみのキリストがシスターに現れます。彼女はキリストに招かれ、あわれみの聖母修道女会に入りました。そしてシスター・マリア・ファウスティナの修道女名を受けることとなりました。台所仕事、庭仕事、荷物運びなどの仕事をしながら、修道院で13年間を過ごしました。彼女の神秘に満ちた内面の生き方は、外見からは全く分かりませんでした。仕事を熱心にこなし、修道院内での規則にも忠実に従っていました。シスター・ファウスティナは冷静な人でしたが、同時に自然な人柄で、おだやかで親切心にあふれ、隣人に対して公平無私な愛に満ちていました。修道院での生活は表面的には、単調でしたが、心の内には普通ではあり得ない神との一体感を秘めていました。イエスはこの慎ましいシスターを、そのいつくしみの伝導者あるいは秘書としてお選びになりました。そしてシスターは、イエスの偉大ないつくしみについてのメッセージを世界に語ることとなったのです。「イエスよ、あなたに信頼します。」イエスにただ身をゆだねるという行為が、濃く立ち込める雲を払いのけ、すべての命に一条の光を射し込ませることができるのです。イエスはいつくしみです。イエスに近づくことを畏れず、許しを願いましょう。

 

2013-3-29

枝の主日、教会は私たちの主イエス・キリストの勝利のエルサレム入城を祝います。イエスはそれまで、公の場でいつも抵抗に会ってきましたが、今日、ご自身が勝利にふさわしいとされたのです。しかし、この日、喜びに満ち、歓呼の声を上げてイエスを迎えていたその同じ群衆が、数日の後、イエスをののしり、そしてイエスをゴルゴダの丘へと導くことになるのです。今日の勝利は明日の受難への確かな前兆となります。ベネディクト16世の予期せぬ辞任の発表から一連のいろいろなことが起こりました。多分私たちはこの状況に適応するために、まだ十分心の準備ができていないようです。

 

教皇フランシスコは1週間ほど前、初めて次のような意味深いメッセージを送ってくださいました。「キリストが中心なのです!」と。そして「キリストなくして、ペテロも教会も存在することはなく、また存在する理由がありません」と言われます。「ベネディクト16世がよく言っておられたように、キリストは教会におられ、教会を導いてくださるのです。」また教皇フランシスコは言われます。「最近起こっていることのすべてで、主に仲立ちをしているのは、よくよく分析してみれば、それは聖霊なのです。聖霊は教会のためによかれとベネディクト16世の決意を促されました。そして、枢機卿たちを祈りへ、また選挙へと導かれたのです。」新しい教皇は、このことが最近起こっていることを理解するための鍵になると指摘されたのです。しかし、悪意のある者はだまってはいません。報道機関やその他あちらこちらで、新しい教皇の考え方や計画に関して誤った風説が多く流れています。それ故この時期、そういうものを目にして判断を下すとき、特に注意する必要があります。その情報の出所がはっきりしているかどうか、出所が明確な場合、それがもたらされた動機や出所の信頼性をどう判断すればよいか、十分注意する必要があります。今、イエスの訪れの時を迎えたといえるのではないでしょうか。この主の訪れを良いものにできるかどうかは、私たち次第です。ですから、みなさん、私たちはしっかりと立っていましょう。そして主の苦しみの受難のおかげで、また、主が流された血のすべてによって、私たちが十分大きなお恵みを得たことを主に見ていただき、主に喜んでいただこうではありませんか。

 

 

2013-2-19

四旬節の間、教会は断食と苦行をするように求めています。精神的な生活には、二つの要素があります。その一つは我々の傷ついた人間性との格闘でありもう一つは神の意思との一致です。言い換えれば苦行と愛です。今年の四旬節前の準備季はサレジオの聖フランシスコの祝日で始まったのですが、彼の霊性は苦行よりも、愛を重んじています。しかしそれは、苦行を軽んじているわけではありません。苦行が、愛の精神で行われることを彼は望んでいるのです。感覚の苦行は、もちろん必要ですが、精神的な苦行がまず第一です。サレジオの聖フランシスコは心の中の苦行が止むことなく、また常に愛に伴われていることを求めます。実現されるべき目的は、愛があって簡明で寛大であり、神の意志に忠実な生活です。これを完成させるために実際に我々がとるべき手段は神の存在を思い起こし、子として父なる神に祈り、自分の全ての行いに対して正しい認識を持ち、深い信仰の叫びと心のうちから沸き起こる熱望を持って絶え間なく神に祈り続けることです。神への愛の精神から行われる苦行のみがサタンに勝利することができるでしょう。さあ、恐れることなくこの四旬節を始めましょう。

 

2013-2-18

2013年1月20日 主の公現後第2主日

 

今日の福音は、イエスの最初のしるしについて語られていますが、主のご公現や主の洗礼同様、これは神の子としての主の栄光を世に表したものです。

「そして3日目、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」

そしてここで初めて、神の恵みすべての仲介者として、聖母マリアが母親の役割をになっているのを見ることができます。カナでのしるしは確実にうまくいきました。それは、イエスにその時を期待させるほど、マリアの取りなしに威力があったからです。

ですから、「わたしの時はまだ来ていません」とイエスが答えても、主の母であり、神の恵みあふる母マリアは、イエスの明確な拒絶に戸惑うこともなく、また自分の要求を押しつけることもしませんでした。ただ、召し使いに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。マリアのへりくだった態度、他への思慮深さ、信仰、そして信頼して身をゆだねることがイエスに勝りました。そしてイエスは、その神聖な心を上回るマリアの力の偉大さを私たちに示すために、マリアの願いを聞き入れました。

マリアの取り次ぎの力はそれほど偉大なのです。

神の子の母となることに同意したことで、マリアは人としてのイエスと深い絆を持っただけでなく、イエスの働きとも深い絆を持つことになります。

人類を救うために救い主が世に来ることをマリアは知っていました。そこで、その母となることに同意したとき、救い主としての使命の最も近しい協力者となることにも同意しました。事実、神の恵みすべてのみなもとであるイエスを私たちに与えたことによって、聖母マリアは、私たちの魂に神の恵みを、最も効果的に、さらに直接的に広めることに協力したのです。

もしイエスが私たちの魂の父であるなら、マリアは私たちにイエスをもたらした母であり、私たちに真実の命を与えました。

一人の女性としてイブは神の恵みを失うことに手を貸しましたが、神の摂理によって、もう一人の女性であるマリアは、神の恵みの回復に力を貸すこととなりました。確かに神の恵みのすべては、恵みの唯一の源であり、唯一救い主であるイエスから来ますが、マリアがイエスを世に送り、その命と働きのすべてと深く関わったことで、神の恵みはマリアからももたらされているということができます。イエスはマリアを通して私たちのところに来られることを意図されたので、神の恵みと超自然の命のすべては、マリアを通してもたらされたことになるのです。

聖母マリアは私たちの聖母であり、イエスをもたらせたと同時に、わたしたちを恵みの命へと導いたのです。

「水がぶどう酒になりました」

私たちの魂に、神の恵みという手段によって、イエスが完成された素晴らしい変化を見ることができます。取るに足りないような私たちの人間性である水が、神の神聖さをともに受けるものとなり、キリストご自身の命である聖なるぶどう酒に変えられました。そして人はキリストの一員となり、神のご意志に沿う子供、聖霊のおわします所となったのです。そして今日、聖母は私たちに、どのようにすればこの貴重な変化を育むことができ、またどのように育んでいかなければならないかを教えています。

聖母はカナの婚礼でかつて召し使いに言ったように、私たちにこう言っています。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」マリアはこの言葉によって、私たちがキリストの内に変わるよう招いています。それは、イエスが教え命ずることすべてを、苦労を惜しまず実行することによって効果をもたらすのです。

ですからみなさん、つつましく、従順な心と、いきいきとした信仰を持ち、自我を捨てて、マリアの御手をとおしてイエスに私たちの身をゆだねましょう。

アーメン

 

2013-2-1

主の降誕後第一主日

 

クリスマスが過ぎて、今日のミサでは平和と喜びが語られます。しかし、同時に深い悲

しみの色も含まれています。

さて福音書は突然、生後40日のイエスを神殿に現し、シメオンの預言を繰り返します。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」

確かに私たちは、反対を受ける場から逃れることはできません。そして、私たちを苦しめたり、神の愛とご慈悲について疑り深くさせようとする反対のしるしの中で、最たるものが、「全能で善と愛に満ちた神が、どうして地上で悪の繁栄を許し、神の民がしいたげられ、苦しまねばならないのか」というものでしょう。

もし私たちが繁栄と地上での栄光のみを夢見るならば、この反対のしるしは理解しがた

いものとなるでしょう。ただ物質的な生活を理想とする人にとって、苦しみの精神的な意

味を理解することはとても難しいでしょう。

人の見識では苦しみは理解しがたいことであり、人を混乱させ、神の御旨に対して不平不満を言わせるもとで、神への全幅の信頼をも失わせようとするかもしれません。

しかしながら、神の知恵によれば、苦しみは救いと贖罪の一つの方法なのです。

ですから、聖性と永遠の命を獲得するためには、私たちがこの真実を受け入れ、悲しみの試練を経て浄化されることが大切なのです。

幼子のキリストは神の愛と慈悲を象徴するものです。神は躊躇なく人の形を取られ、人の魂を救うために幼子となられたことを私たちは忘れてはなりません。「そして、真実の愛は純粋な愛のみによって報われるのです。」

神の真実の愛が魂に入ると、それは次第に内なる活力を溢れさせ、愛である神を喜ばせるためにいかなる方法でも取ることに一生懸命になります。

真に愛することを知っている魂は、課せられた務めが易しいか困難か、意に添っているか気に食わないか見極めることを止めません。しかし、愛を維持するために、すべてを引き受けるのです。

イエズスの聖テレジアは異郷生活が長引くと分かったとき、神に捧げた苦しみの中で、自分の心をなだめる唯一の方法は永遠の愛への渇望であると悟りました。

はっきりしていることは、このような愛が、私たち人間のあまりにも貧弱な特性が生み出したものではあり得ないということです。内からの浄化のため、狭い道を通って神が導いてくださることを承知している魂に、唯一神ご自身が、少しずつ愛を注ぎ込んでくださるのです。

何の実りもなく、心も孤独で、光と慰めが全く欠乏しているとき、聖霊は魂の中にあわれみの炎を燃やします。その炎は、魂が前向きになっていて、愛に反するすべてのものから浄化されていることがわかれば、ますます入り込んでくるのです。

私たちは、神への愛のために苦しむことで浄化される必要があります。

今日の福音書ではシメオンとアンナのことが語られています。幼子イエスが神殿に献げられたとき、その場に居合わせた人たちの中で、救い主であると確信していたのは、年老いたシメオンと女預言者のアンナの二人だけでした。シメオンについてはこう語られています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」 またアンナについては、「彼女は神殿を離れず、断食をしたり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」と書かれています。

二人の中に、イエスの救いの業を受け入れようとする魂の前向きな姿がうかがえます。それは精神と意志に正義が満ち、心から神を慕い、黙想し、祈り、そして罪からの誘惑を克服しようとする姿です。その心のありようが深くなればなるほど、魂は神の行いに対して門戸を広げようとするのです。また聖霊の光は、イエスが魂の救い主であり、聖別される方であると、魂が確信できるよう導くのです。

そしてイエスはその魂の中で御業を完全に成し遂げられることができるのです。

今日の書簡の中で、聖パウロはイエスの血によって救われたすべての魂に語りかけています。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば神によって立てられた相続人でもあるのです。」

 

イエスは人となられ、私たちの中にいてくださいます。

ですから皆さん、キリストとともに神の愛と真実の内に成長し続けていきましょう。

アーメン。

 

 

 

2013-1-21

楽しかったクリスマスも終わりました。しかし怠惰であってはいけません。私達は神の子として、恵みある命の内に、成長するように招かれております。子供がいれば、もちろんその母もおります。教会という、家族の内では、汚れなきマリアを私達カトリック信者は母として頂いています。マリアは、神の子イエスの母となることに同意したときイエスと共に、その使命をともにする決心をしました。今日の福音はイエスが最初に行われた奇跡の話です。我々は、ここに初めてあらゆる恵みの仲介者としての母マリアの姿を見るのです。マリアの思いやりがイエスに、その時を先取りさせるほど強かったので、カナの奇跡が行われました.マリアは召使に言いました、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」マリアの謙遜、他人への思いやり,信仰、神への信頼による自己犠牲がイエスの心を動かし、イエスの心に対する彼女の影響力の大きさを示しました。イエスはマリアの願いを聞き入れてくださいます。マリアのイエスへの取次の力は偉大です。彼女は父なる神を賛美し、神の民を聖化するためにずっと働いてこられました。我々は、素晴らしい母をもっています。さあ我々はマリアの子供として心を開き、彼女のあわれみにどうすれば頼ることができるか、学ぼうではありませんか!

 

2013-1-17

皆様新年おめでとうございます。2013年の新しい年に向かって降誕節の間に皆様の気持ちを十分に新しくされますように!実際、イエスの降誕と共に新しい救いの時が始まりました。これは、イエスがこの世で生きておられた時の人々にとってだけではなく2013年に生きている我々にとつても真実なのです。イエスは言われました。「私は真実であり、道であり、命である」と。両腕を広げた幼子イエスの愛らしい仕草の内に伝えられたクリスマスのメッセージによって、私達は、イエスが愛してくださっているということを理解できます。神の無限の正義を深く考えることが我々にある種の恐れを与えるとするならば、神の無限の愛を考えることでより深く神を信頼できるようになります。まさに、神の子イエスは恐れを、新しく愛に変えるためにこそ、ここに来ておられるのです。愛である、神の教えに従って生きるために我々はキリスト降誕の神秘に立ち返って自らの信仰生活を見直さなければいけません。事実、永遠のみ言葉であり、我々のために幼子となられ、生まれられた瞬間から喜んで我々の罪を背負ってくださったイエスを目の当たりに見る時、神の愛を私達は知ることができるのです。そうです愛である神は我々を待っておられます。神に近づくのを恐れてはいけません。我々がいつもイエスとの関係を深められるよう神が我々にお恵みを与えたまわんことを!!

 

 

 

2012-11-19

カトリック教義のテキスト

 

私たちは信じるということが何を意味するかをまず問わなければなりません。信仰とは人の神への返答です。神はご自身を現し、人にご自身を与えられ、また同時に、人が生きることの究極の意味を捜し求めるとき、有り余る光をもたらしてくださるのです。神への願望は人間の心に記されています。なぜなら、人間は神によって、そして神のために創造されたからです。そして、神は人間をご自分の方へ引寄せることをやめられません。探し求めてやまない真実と幸せを、人はただ神の中だけに見いだすことができるのです。

 

2012-11-12

近年、異常とも思える災害が頻繁に起こっています。確かに私たちは不安定な時代に生きています。私たちの未来に一体何が待っているのか、予測がつきません。主は福音書の中でこうおっしゃっています。「目を覚ましていなさい。その日、その時はだれも知らない。」     私たち自身の力だけではどうしても乗り越えられないことがままあります。その一つが死です。私たちは死から逃れたり、死をコントロールすることはできません。この地上に生きている限り、死のあとにやってくることを、人は実際に経験することはできません。確かなことは、いつか私たちは死を迎えるのですが、私たちの魂は生き続けるということです。魂は不滅だからです。死のあとすぐに、私たちの働きと信仰の度合いによって、それぞれがその報いを受けるであろうことは、黙示から承知しています。死ねばすぐ天国に行けることを、もちろん、だれもが望んでいるところです。しかし、神は汚れのない存在です。一方魂の中には浄化の火をくぐる必要のあるものがあります。そうすることで、天の至福を得るために必要な聖性を獲得することができるのです。教会はこの浄化の最終段階に煉獄という名を与えましたが、これは地獄に落ちた者たちへの罰とは全く違うものです。そして11月は、特にこのように煉獄で苦しんでいる魂へ祈りを捧げる月となっています。これらの魂には私たちの祈りが必要で、この祈りによって、彼らは煉獄での滞在を短くすることができるのです。主よ、彼らに永遠の休息を与え、彼らの上にいつまでも光を照らしてください。

 

 

2012-11-12

乙女マリアのロザリオの祈りはとても簡単ですが、しかし実に奥深いものです。ほんの少しの言葉で、カトリック信仰の本質を要約し、私たちの魂に救い主へのやさしい愛を注ぎ込み、神聖さの実りをもたらしてくれます。ロザリオの神秘一つ一つを黙想するとき、ロザリオの祈りとは実はキリスト中心の祈りであることに気づかされます。それ全体に福音書のメッセージの奥深さが備わっているのです。それはマリアの祈り、すなわち、乙女の胎内から始まって、神が人の姿をとられて贖罪の働きをされることに対しての、永遠に続く聖母マリアの賛歌を思い起こさせるものなのです。ロザリオの祈りによって、私たちはマリアの足元に寄ることを許され、キリストの美しい顔をじっと見つめて、その深い愛を味わうよう導かれるのです。「神の母聖マリア、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。」

 

 

2012-11-08

次の説教は昨年2011年の聖体の祝日のときのものです。

今年は典礼の暦がとても遅くなっています。2週間前、私はシカゴで「キリストの聖体」をお祝いしました。今度「キリストの聖体」の祝日が今年のように遅くなるのは2038年で、6月24日になります。そこで今日は、私たちの神さま、そして「神は我々と共におられる」の意味であるインマヌエルを、もっと味わうことができる主日としたいと思います。

 

今日のミサは、この揺るぎない希望の叫びで始まっています―「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」 主は祭壇の聖櫃のうちに、聖別されたご聖体として、私たちと共におられます。聖体拝領を通してイエスが私たちのもとに来てくだされば、私たちの魂に主のお恵みを刻むことなく離れてしまわれることはありません。この秘跡の力、神さまのご慈悲の暖かさは、私たちの魂のうちに留まるのです。

 

しかしながら、私たちは教会から一歩出るやいなや、私たちが主をいただいたことなど忘れてしまい、ビジネスや、仕事、その他世事に没頭してしまうことも度々です。確かに私たちは自分の弱さを知っています。神さまからお恵みをいただいたことはいともたやすく忘れてしまい、おかした自分の過ちや不信心さへも簡単に忘れてしまうのです。そこで、今日のミサにある次の美しい祈りを謙虚に繰り返し捧げることがとても大切になります―「主よ、わたしたちの罪をお許しください。救い主である神様、御名の栄光のためにわたしたちを助けてください。」 わたしたちが絶えず神さまのお恵みに助けられているとしても、また、幾度となくゆるしの秘跡を受け、ご聖体をいただいているとしても、私たちは毎日、次から次へと過ちを犯すものであることを認識し、日々を新たにしていかなければなりません。

 

カトリック信者として生活を送ることには努力が必要となることも、また痛みをともなうこともあります。しかし、聖パウロは、今の労苦が、来たるべき栄光とは比較にならないことを私たちに気づかせてくれます。栄光が天にあるという思いはなぐさめであり、希望であり、自信となります。また現在の苦しみが、自由へのあこがれや、すでにこの地にもたらされているはずの完全なる罪のあがないを望むことを妨げるものではありません。なぜなら、私たちが弱さゆえに苦しめば苦しむほど、救いの力に全幅の信頼をおいてイエスと向き合うことになるからです。

 

今日の福音は、次のイエスの言葉が実際的であることをよく表しています―「わたしがいなければ、あなたたちは何もできない。」 シモンと彼の仲間は一晩中ずっと漁をしていましたが、何も捕れませんでした。もし私たちに霊的な生活で多少の経験があれば、こういうことは私たちにも起こりうるものだと気づくことでしょう。あれやこれやのしがらみから自分を解き放ちたい、受けた傷を忘れたい、また、隣人のやり方に自分を合わせなければならないなど。こんな時、いったいどれほどの努力が必要となるでしょう。私達が自分だけの力に頼っている限り、聖ペテロの網のように、私たちの手の中は空っぽなのです。でも、みなさん、がっかりすることはありません。

 

もし、私たちが挫折感に捕らわれず、謙虚に過ちに気づくことができれば、過ちそのものが栄光へと形を変えるのです。いくら私たちが善意をもって徳を高めようとしても、私たちが自分の欠点や未熟さを十分わきまえていると主が判断されるまで、主は私たちに成功をお許しにならないでしょう。そして、時として一晩中働いても何も得られないという経験も私たちに示されるのです。しかし、自分の弱さを正直に認める意志を私たちが持っていると一旦判断を下されれば、主は私たちの助けとなってくださるのです。ですから、私たちは主を信じる強い心を持ちましょう。決して自分をあきらめさせないことです。主のみ言葉に信頼して日々を新たにしていきましょう。同様の確信をもって「主よ、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と語った聖ペテロのことを思い、今日の祈りを改めて味わいましょう。

 

ではみなさん、天の国を目指す旅の途中で、毎日の生活の中で、またその一瞬一瞬において、今日の祈りを繰り返し唱えましょう。

「主よ、わたしたちの罪をお許しください。救い主である神様、御名の栄光のためにわたしたちを助けてください。」アーメン。

 

 

 

2012-11-06

特別形式のミサでは先月の最終日曜日に王たるキリストの聖なる祝日を祝いました。今日の黙想はその時に用意したものです。

 

王たるキリストの聖なる祝日を祝って!!

 

今日私達は、イエス・キリストを王として祝います。しかしキリストはどのような王なのでしょうか?「真理を求めるものは誰でも私の声を聞く」とキリストは言われた。それに対してピラトは「真理とは何だ」とキリストにあざ笑うように尋ねた。これについて昨年シカゴ大司教区のペリイ補佐司教が王たるキリストの教会で次のような適切な答え出してくれました。「真理に目を向けなさい、そうすれば世の中の事はなんらかの誤った臆説や誤算や間違った考えに基ずいているために、権力、名声、人気などは、はかないものであるということがわかるでしょう。イエスが王であるのは、真実に生き真実を話す者として我々が受け入れたからです。イエスは決して欺くことも欺かれることもない永遠の真理であり知恵です。イエスが我々に真実の声を聞く勇気を与え賜わんことを!!

 

 

 

 

2012-11-03

祈りの生活

祈りは大切な心の生き方です。しかし、わたしたちは、命であり、すべてであるはずの祈りを忘れがちになります。キリスト教の伝承の中で、主に三つの祈りの表現方法が守られてきました。それは、口禱、黙想、念禱です。どの祈りにも共通している基本的な特徴は潜心、つまり、精神を祈りの対象である神に集中させることです。

 

1.口 禱

祈りが聞き入れられるかどうかは、言葉の数によるのではなく、わたしたちの魂の情熱によります。わたしたちは身体と心から成り立っていますが、わたしたちの思いを外に向けて表現する必要があります。それは神が要求されることと一致するのです。神が望まれるのは、外への表現方法において、身体と内なる祈りが一つになっていることです。そして、わたしたちが語りかけるべき神を意識することによって、祈りはわたしたちの心の奥深くにとどまるのです。

 

2.黙 想

黙想とは探究することにほかなりません。主が求めておられることに忠実に従い、答えるために、わたしたちの心はキリスト者としての生活に「なぜ」と「どのように」を理解しようとするのです。そのために、通常、多くの書物や聖典、聖なるイコン、教会の典礼、聖人たちの書き物、霊性の働きによる作品、そして創造と人類の救いの歴史を物語る偉大な聖書の助けを借りることになります。

わたしたちが謙虚で、信仰心にあふれていれば、黙想の間に心を揺さぶるものがあることに気づき、それをはっきり認識することができるようになります。大切なことは、聖霊に導かれ、イエス・キリストに向かう祈りの道を進んでいくことです。

黙想には、思考、想像、感情、そして願望が必要です。そしてキリスト者の祈りは、キリストの神秘を黙想することにほかなりません。

 

3. 念 禱

聖テレジアはこう言っています。「わたしが思うに、念禱とは友同士の親密なる分かち合い以外の何物でもなく、すでにわたしたちを愛してくださっている、その方とともにいる時間を多く持つことです」と。

わたしは主を見つめます。主もわたしを見てくださいます。

 

1.念禱は信仰によってイエス様をじっと見つめることです。

 

2.念禱は神さまの言葉に耳を傾けることです。

 

3.念禱は沈黙のうちに行われます。

 

この祈りの言葉はスピーチのようなものであってはなりません。魂に愛の火をつけるものでなければなりません。肉体的に耐えるのは苦痛かもしれませんが、この沈黙の中で、父なる神はわたしたちに、人となり、苦しみを受け、死に、そしてよみがえった神の御一人子イエスを通じて私達に語りかけます。そして、この沈黙の中で、イエス様の祈りを分かち合うことができるのです。

 

写真は2011年に、米国・ピッツバークでミサをあげたときのもの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012-11-01

聖母マリアの聖なるロザリオ

聖なるロザリオの歴史は実に興味のある物語です。ロザリオの祈りは、修道院の聖務日課を見習った習慣として始まりました。聖務日課の中で、修道士達は150の詩編を祈りましたが、詩編の代わりに聖母マリアへの祈りが唱えられました。また聖伝にはロザリオは聖母マリアから聖ドミニクに下さった祈りの一つの形であるとも書かれています。彼は、フランスで異端のために信仰が荒廃していた時ロザリオの祈りを唱えることを信者に説きました。聖母は異端や罪に対する償いとしてロザリオを唱えることを求めました。その時から聖母は私たちがロザリオを唱えることによって奇跡を起こしてこられました。聖母が起こされた奇跡の中で最も顕著なものが、1571年10月7日の「レパントの海戦」のキリスト教徒軍の奇跡的な勝利です。そして1571年に聖なるロザリオの祝日が教皇ピオ5世によって定められました。海戦の当日教皇は事務的なことで話し合いをしておりました。突然彼は黙ってしまい、窓のところへ行き、シャッタ-を開け、虚空を見つめながら思索にふけっていました。しばらくして我に返った教皇は秘書に言いました。「今はこのような事をしている時ではありません。神に感謝を致しましょう。我が海軍はたった今トルコ艦隊を打ち破りました」。

 

 

2012-10-27

2002年福者ヨハネ・パウロ二世は、2002年10月から2003年10月をロザリオ年と定めました。そしてカトリック信者達がイエス・キリストへの気持ちを新たにし、聖母マリアの教えと導きを受けてキリストのみ顔を仰ぎ見るようにと勧めました。さらに彼は、ロザリオを唱えることがキリストのみ顔を仰ぎ見ることそのものであると言っています。そしてその10年後、信仰の最高のお手本である聖母マリアに促されたかのように、教皇ベネディクト十六世は2012年の10月11日から2013年の11月24日までを信仰年と定めました。そして教皇様は、カトリック信者たちが信仰の門を通ってキリストとのより深い交わりへと進むようにと勧めておられます。教皇書簡(Apostlic Letter Porta Fidei)には次のように書いておられます。「信仰年は、唯一の救い主である神への回心を呼び起こす機会です。キリストの死と復活の神秘を通して、我々の罪を許すことにより我々を救い、回心を呼び起こすのは愛であると示して下さいました。このように信仰年はカトリック信者にとって信仰を新たにする良い機会であります。すなわちイエスに立ち返りイエスとより深く交わる機会であります。」さあ全幅の信頼を持って母マリアと共に信仰年を迎えましょう。

写真は2年半前にイタリアにいたときにフィレンチェ,ローマを巡礼したときの写真です。ミサは聖ピエトロ大聖堂の地下聖堂であげたときのものです。